はなむけ

抱えきれない感傷

13日を送る文

 

 その感情を、どう表現できるのか、すべきなのか、そもそも表現することを、許してもらえるだろうか。夜になった。雑然とした部屋でひとり、迫り来る朝に怯えながら、私はずっと答えを見つけられないでいる。

 

 

 きっと予感はしていた。覚悟する、ための準備だってしたかもしれない。それでも、「正しい」考え方に抗うような思考を自問して、時に責め、良い子ぶったって結局捨てきれないエゴを認めて自嘲しながらも、その日を諦められないでいたのだ。しかし、同時に、理解ができている。正しい理論があり、正しい議論が行われ、決められた内容も、私がかつて望んでしまったイフよりきっと、広く正しい現実をもたらすだろう。その決断だって、きっと少なくない人の頭を悩ませて、あるいは痛みを伴って生み出されたに違いない。私は私の執着するこの娯楽が、今日という日に正しくあることが、誇らしくてならない。

 一方、理解をしながらも途方に暮れている。不透明・不明瞭、分別できない感情が、正しさと繋がりのない空間で持て余されている。それは喜怒哀楽にも四苦八苦にも当てはめることができなくて、強いて言うなら大罪に分類されるのかもしれないと、思考を放り捨てることであてのない道筋から逃げている。たった1日、待ち望んだ「明日」を失ってしまったことが私に何を持て余させているのか、私自身にもまるで分からないのだ。

 

 

 初めてその人を意識したのは、チラシの小さな枠に収まる写真だったように思う。観劇に行った友人が、チラシを指差しながら「この役は、確かこの人だったよ」と教えてくれたので、流し見した雑誌でインプットされていた顔と照らし合わさって、初めて意識のうちに現れた。端正で、繊細な人だね、と口をついて出た。しばらくして季節がひとつ去り、ふたつ去って、みっつめとよっつめの境を見失った頃、この目で見る機会に恵まれた。その人の登場はあまりに鮮烈すぎて、姿かたちが、動きが目線の鋭さが、目に見えないいずこかへ焼き付いて離れなかったのだった。それから時々その人を見ることが叶い、季節がめぐり、めぐって、めぐって、5年になる。

 その5年のなかで、ひとつ夢を見たのは冬と春のあいだだった。より正確に言えば、私個人が「夢を見てもいいのではないだろうか」と思えたのがその季節であった。ある光景を目にした一瞬、急にその「許された」に類する気持ちが湧いてきて、きっと叶うであろう夢のかたちを、初めて自分の手で明らかにした。その夢をしばしの、しかし中身がギュウギュウに詰まった時間中ずっと掲げてきたのである。結果、たしかさを伴って夢が叶った。たいへん喜ばしく、楽しい瞬間があった。けれどもいちばん晴れやかで、清々しくあるのはきっとこの日だろう!と信じて疑わない日が未来の中にあった。それが、他ならぬ「明日」なのであった!

 

 

 押し付けがましいようだが、私個人は結論を今、正しいと思っている。だって、実際起きているのはその日が「明日」でなくなったというだけのことで、「明日」ではなくなったその日が、待っていれば必ずやってくる。私自身「その日は明日でなくちゃいけないか」と問われれば、笑って否と答えることができる。しかしそれとは裏腹に、行く当てのない感情を飼っている。「明日」が失われて、なんだ意外と冷静じゃないか、と湧き起こる感情を整理していくうち、どうにも手のつけられないそれを見つけてしまったのだ。形も、色も、大きさも分からないその感情を、どうしたらいいのか分からない。知っているのは「明日」の喪失によって生まれたということと、私が大切にしてきた何某かの思いの果ての姿だ、ということだ。捨てられないのだ。正しさをもってこの感情を征伐してしまうことが、どうにもできそうにない。少なくない年月に、期待や願い、祈り、喜びをひとつひとつ織り込んできた私のことを、殺してしまうようで。たどり着く先を失ったこの感情を、生き延びさせることは罪か。それでも、私は殺すことができない。

 

 

 きっと今、私が愛してやまないその人たちは、感情の波に煽られながらも、前を向いて歩みを進めている。そんな人たちのことを心底尊敬しているから、私もその背を追って歩き始めつつある。きっと私が想像して期待したのと同じくらい、それ以上に喜ばしく晴れやかな日が来るだろう。その日に向かって明るく前向きに、できるだけ振り返らずに歩いていくから。だから行く当てのない感情を抱えて行くことを、どうか、誰か、許してほしい。

 それから、願いがある。私よ、どうか未来のゆく道の中で、「明日」が失われたことを後悔しないでくれ。嘆かないでくれ。立ち止まり振り返ることがあっても、一瞥してまた歩き続けると約束してくれ。この季節の続きが楽しく、喜ばしく、輝かしいものであると、そう信じることでしか足を動かせそうにないのだ。だからどうか、私がいつか、きらきらした「その日」に立ち会って、あわよくば感情の成れの果てを見送ることができますように。どうか。